とある書物の備忘録

読書家ほどではない青年が本の感想を書くブログ

文学作品とライトノベル、あとSSを読む読み手についての考え。

読書をほぼしないにもかかわらず本について批判する人がいます。
だいたいは「純文学は文学している。最近のラノベは文学していない」に完結するような安直な言い回しですよね。
そういう人はそうとして、読む人は気にしないで好きな本を読めばいいと思いますよ。
こんなことを書いておいて言うのもなんですが、今回の記事はその人達に物申すという記事ではありません。



僕も上に書いてある思想を持っていた頃があります。「純文学は緻密な描写が美しく、想像を掻き立てる」実際そうです。文章の美しさに息を飲んだりするのも知的でいいと思います。「月が綺麗ですね」のような文学的で独特な言い回しは、奥ゆかしくも美しく儚げで、心地よい余韻を残してくれます。
そんなこと頭でわかっていながらも、昔、僕はほとんど文学を読んでいませんでした。このブログを始めて初めて『人間失格』を読んだぐらいですし、今でも太宰治作品はほぼ知りません。純文学に対しては、クソにわかってやつです。なのに、今よりもっと純文学に無知だった当時は「純文学は正義」なんて思っていたのだから笑えますよね。

そんな「純文学の緻密な描写が想像を掻き立てる」という意見、最近、というより数日前の風呂で「それは違うんじゃないか」とふと思いました。
つまり、「純文学は緻密な描写が想像掻き立てる」であるが、それは言い換えればすでに「描写されている」ということですよね。
一方のライトノベル、その昔、僕が夢中になった本もそうですが、簡単な言葉で中には「描写をしていない」のもあるんですよね。ちなみに当時の僕は、それを絵や想像力でカーバーしました。
それに加え、最近はネットの掲示板などでSSというジャンルが確立されているようです。それを見ると、本当に会話だけ、描写もなければ、音もドッカーンバコーンの擬音のみだったりします。ライトノベルより簡単な形式になるのでしょうか。
人物に至っても、男、女、勇者、賢者などあるいは名前もない記号である状況にもかかわらず、そのSSにハァハァと言ってる読者もいるわけですよ。
ほぼ人物の会話だけで進む。ライトノベルにはかろうじてある風景などあるも、こちらに至っては文学的なものは何も「描写されていない」んですよね。

ここでいいたいのは「描写をされている」ものと「描写をされていない」二つの違った形式で、どちらかと言えば「描写がされていない」形式を読んでいるほうが読者を想像をより掻き立ててせているんじゃないかと思うわけです。
一言で言うなら、「文学作品で書くところを書かないライトノベルやSSは、読者が勝手に妄想してくれるからその分、読者の想像力を掻き立たせているんじゃないか」って話です。
これは叩かれている作品を見ても同じことが言えます。スッカスカな内容を叩くぐらいなら想像力で補えということですね。
批判するわけではないですが、補ってもつまんない作品もあります。ただ、それは純文学でも、大衆文学でも、ライトノベルでも、SSでも言える同じことです。叩くならちゃんと読んで、作者を敬意を込めて叩けばいいと思います。

これらを踏まえて個人的な意見を言えば、どっちを読もうがどうでもでもいいです。
僕は「文学作品で書くところを書かないライトノベルやSSは、読者が勝手に妄想してくれるからその分、読者の想像を掻き立たせているんじゃないか」という考えが浮かんだから考察としてまとめたまでで、オーバースローで投げるのがいいのか、アンダースローで投げるのがいいのかって言っているようなものですよ。どっちもどっちの良さがありますからね。
だから読みたいものを読んで、賞賛したいならして、批判したいならすればいいと思います。

人類は衰退しました1 (ガガガ文庫)

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