とある書物の備忘録

読書家ほどではない青年が本の感想を書くブログ

夢十夜

31冊目
たしか一夜目と運慶が登場する夢は国語の教科書に載っていた気がします。
そこでの授業はあんまり覚えていませんが、夢の内容はやんわりと残っていました。
ほかの八夜はどんな話だろうかと、そんな思いで手に取りましたね。

有名な「こんな夢を見た。」から始まる夏目漱石の夢物語です。
夢だけあって、よくわからない展開や、時系列的おかしい人物が登場したりとめちゃくちゃな内容になっています。
ちょっとした小話でも読んでいるような、それでいて世にも奇妙な物語を見ているような感じの話が多かったですかね。
比較的短いので、気軽に読むことができる作品になります。(なお、内容は気軽じゃないもあるもよう)

----(ネタバレあり)-----



短編が十あるのみなので、それぞれの夢を振り返ってゆきます。

第一夜:腕組をして枕元にいると、女が出てきて「もう死にます。死んだら真珠貝で墓を作ってください。また会いに来ますから」と言うので、語り手が実際に墓を作り百年待つことになる。
真珠貝とはアコヤガイのことですが、アコヤガイで墓穴を作るとなると、太陽上がって沈んでしまうほどの時間がかかりそうです。貝で地表削り取って素手で掘るところ想像したら、文学には程遠いとても汗臭いイメージが湧きますね。
ときに、夢のなかって不思議な事に、すごく長い時間過ごしても、現実だと五分しか実際寝てなかった、なんてことありますよね。今回この百年待つという時の体感時間はどれぐらいなのか気になるものです。美しく描写でカバーしているものの、もし体感時間かなりのものならきっと退屈な夢だったでしょう。

第二夜:和尚が侍(語り手)に向かって「侍なら悟ってみろや。悟れないようなら侍じゃない、ただの屑だ」など煽られて悔しいから悟ろうと必死になる。
煽ってくる和尚といえば、『朧村正』の某和尚を思い出します。僕の中では外見はそれでした。ただ、あれ以上に、この和尚は煽りスキルが高いのか、語り手は必死になって悟ろうとしていました。
はたしてその悟りがいい悟りなのか、悪い悟りなのかわかりません。取り合えす言えることは、その和尚は悟りなぞの境地には立っていないだろうということです。
悟りとは心を無にすることです。この物語後半に語り手は、周りの物が「有るようで無い、無いようで有る」状態になったと言っていますね。それすなわち、もう悟りの境地に立ったと言ってもいいんじゃないか。と、僕は思います。おめでとう! 立派な侍だよ!

第三夜:語り手が目盲の小僧を背負って歩き、小僧との会話でやがて自分の過去小僧を殺したことを思い出す。
ただ夢のことだから、トンデモ展開になるのは間違いないとしても、演出としてはホラーよりでした。実際殺したと気がついた途端、小僧が重くなったというのはやはり驚くものです。その後夢だと覚めたのであの後のことはわかりませんけど。
注目すべきは、夢だというのに看板の文字を読んでいるという所です。夢の中の文字って覚えていますか? めったに覚えてないと思います。特に印象深かった夢だったのか、夢日記をとっていたのか、その記憶力に驚きました。

第四夜:酔っぱらいの爺さんに、蛇を見せてもらうために後を追っていたら、爺さんは入水してそのまま出てこなかった。
この話で登場した「神さん」とは誰なんでしょうね。神樣みたいな感じならばファンタジーな話になるものですけど、カミさんなら普通に小話しているだけに思えます。おそらく考察で答えなり出ていると思いますけど、ここらへん僕は詳しくないのでわかりません。
今に蛇を出すと言っていたおじいさんが入水する時に言っていた。

「深くなる、夜になる、真直になる」

という言い回しがわりと好きです。なんかどこかの児童文学やラノベやゲームやらでありそうな言い回しだからでしょうか。

第五夜:運悪く戦に負けて囚われた語り手が、夜が明けるまで女を待つ話。なお、女は間に合わない。
物語雰囲気がある話でした。個人的には間に合って女と再会して欲しかったものですが、現実は非情なり、間に合わず崖に落ちました。
気になったのは、「天探女」というキーワードです。「あまのじゃく」と読むようルピがあるように、現在で言う「天邪鬼」をさすと僕は思っているのですけど、天を探す女という文面はさらに何かを含んでる気がしました。まぁ相変わらず僕が無知なので、昔はこう呼んでいたなど言われちゃあ「なるほどね」と言うしかないです。
しかし鶏の真似って、「なに! 曲者か!」「にゃーん」じゃあるまいし……と、多少面白くなったのは秘密です。

第六夜:仁王を彫っている人がいると聞いて言ってみると、運慶が仁王を彫っているところに遭遇する。語り手は野次馬と会話し感化され、家にて彫刻を試みるが何度やっても失敗する。
時代系列おかしい運慶が登場します。ここの野次馬が言っていた「木の中に埋まっているのを掘り出しているだけ」というフレーズは夢ででたとは思えないほどのハッとする意見でした。
この話で思ったのは、感化されて家で彫りにいった語り手がうまく彫れないことを、「明治の木には仁王が埋まってない」というシーンでしょう。あれ語り手がうまいように彫れないだけで、仁王が埋まってないことを道具のせいにしちゃいけませんよ。って、個人的には思ったのですが、まぁ夢なので、そう思ったならそうですかで完結します。

第七夜:語り手は大きな船に乗っていた。不安な思いに苛まれていた語り手は、周りに「どこに行くのか」と聞くも、周りは答えてくれない。不安はどんどん大きくなり、語り手はやがて海に飛び込む。そしてゆっくりと遠くなる船を見るなり後悔をした。
大きな船ということでタイタニック号を想像しました。その中で、語り手はどこかに行くのか不安になっているようです。
注目すべきは、投身したあとの後悔のシーン。後悔しても遅いという絶望感がひしひしと伝わってくる良い文章だと思います。実際に、「あぁ、終わってしまうのか」という感情、自殺する人も同じことを思うのでしょうか。と考えて、一人ゾッとしてました。

第八夜:床屋に入った語り手は、鏡の前で様々な人が流れていくのを見てゆく。
ただ人の流れを見ているのみ、という内容のないこそ夢っぽい話でした。当時の状況らしい様子が描写されていて興味深かったです。ラッパを吹く豆腐屋や栗餅屋、十円札など今や見かけない風景もあって、想像するにはいいものでした。
床屋に関しては三、四人なのか三十四人なのかと多少迷ったことと、唐突に大声で喋り出す店主以外は普通のようです。誤解したのは僕だけのようですね。

第九夜:父親が勝手に出て行きしばらく、若い母親と三歳の息子は残されていた。母親は夫の安否に不安を思い、深夜百度参りに子供を連れて行っていた。という話を語り手は母親から聞く。
健気な妻が出てくる話です。草履を履いて百度参りなんて、寒い日や雨の日なんか本当に大変だと思いますよ。しかも子供がいるなんてなると、その大変さは僕の想像を超えていると思います。
展開として、ただこの健気な妻がでて終わるのかと思えば、最後語り手は「これを母から聞いた」と言ってますね。個人的には超展開でした。そんな泣いていた子供が語り手なんてーみたいな。ちょっとしたネット掲示板ありそうな小話です。

第十夜:庄太郎という好青年がふらっと出て行って七日、熱を出して倒れてると健さんから知らされる。それから、庄太郎の経緯が書かれてゆく。
人物名が出るのは久しぶりのことかもしれません。こう名前があるだけでキャラクターが立っているような気がします。
この庄太郎という人物、なかなかに変態でした。水菓子屋近くに腰掛けて「眼福眼福(意訳)」と言ってるのですから、時代が今ならおそらく通報ものでしょう。しかし、まぁ、水菓子屋できゃきゃしている女性の顔を見るの楽しいはわからんでもないです。
途中に、立派な格好をした女性が出てきます。この女性の無茶振りなどは置いておいて、女性の手伝いをしてついていくなんて、いいやつでしかも軽いナンパ師的なものを庄太郎から想像するのも無理ありません。
豚が嫌いだとか言ってましたけど、あれはなんですかね。拒否反応もあるでしょうけど、「豚なんて……」というプライド的なものあるのかもしれませんね。
しかし「庄太郎は町内一の好青年だ。多少変な所があるが、ほかに特色はない」が唐突に出るなんて、ラノベ特有の自己紹介みたいでおもしろかったです。

【まとめ】
一夜から十夜まで短いから感想もチョチョイのチョイかと思えば、いざ書いてみればわりと大変でした。
僕がこの作品を読んで思ったのは、漱石さんは夢をリアルに見ているんだなということです。
真珠貝で墓穴を掘るシーンでも土の匂いがしたというし、掛け軸やら床の海中文殊やら描写が細かく見ていました。夢ってぼんやりとしたイメージがあるものだから、その詳細っぷりは驚くものがあります。中にはセピア色や白黒という人も居ますけど、漱石さんは子供背負って歩く話で確か「赤色の文字が……」とかあったのでおそらく見ていたのはカラーでしょうね。
ところで、「夢を詳細に観察する」と、「夢のなかで夢と気がつく」というのは明晰夢の条件として有名です。となると、漱石さんは無意識でも明晰夢を会得していてもおかしくないんじゃないかなと個人的に思いました。
(内容全く触れていない総括になってしまった……)

朧村正 (特典無し)

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文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

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夢十夜を十夜で (はとり文庫 3)

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