とある書物の備忘録

読書家ほどではない青年が本の感想を書くブログ

『雀蜂』を読んで思う二次創作ついて、あと小説家志望へ。

貴志祐介さんの作品『雀蜂』の途中にて、二次創作っぽいことをしているシーンと、小説家志望の考えていることが書かれてあるシーンがあります。
あんまり本編と関係ないし、シーンもちょこっとあるのみなので作品感想では書きませんでしたけど、読んでて思うことはけっこうありました。
最近『カクヨム』という小説執筆サイトが公開されたようです。ちょうどいいので、それら思うこと(二次創作、小説家志望さんへ思うこと)をまとめて書いていこうと思います。
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作品感想の方:雀蜂 - とある書物の備忘録

※この雑記も作品感想の方も『雀蜂』のネタバレがあります。注意してください。











作品『いきるもの ころすもの』を読んで
作中作というんでしょうか、作中作の二次創作として安斎智哉が書いた短編ですね。
この作品についていろいろ思うことはありますけど、一言で言えば「悪趣味だな」ということです。まぁおそらく、「こんなものを見て気を害さないわけ無い!」「夢子が可哀想だ!」など心情を読者に覚えさせて、ミスリードさせる役目のためにあるような作品なんでしょうけどね。
そんな存在理由を置いておいて、こんな作品を夢子が見たならかなりショックな作品だったと想像できます。子供向けのの作品なのに子供に見せられないような内容ですし、単純にキャラ同士共食いしてます。「弱肉強食」という大切な本質は理解できるものの、あくまで悪趣味でした。これは夢子に同情すべきです。

二次創作
ここでいったん視点を離してみます。二次創作(薄い本など)を想像すれば、こんな悪趣味で酷いこと普通にしてますよね。むしろアニメやら漫画の二次創作のほうが過激なことをしていると言えます。
しかし、それら作品を思い返してみれば、すごく酷いことしているのに読んでて覚える感情は「あぁ二次創作か」という程度なんですよ。(もちろん酷いなと思う作品もあります)ここで気になるのは『いきるもの ころすもの』を読んで感じた悪意と、「あぁ二次創作か」程度で終わる二次創作の違いについてになります。
キーワードになるのは僕が『いきるもの ころすもの』を読んで感じた「悪趣味だな」というあれになると思います。
なんというか、ただインパクト強くするためにキャラに残虐なことする作品ってありますよね。あれを二次創作でされたら「悪趣味だな」という感情になるんだと思います。つまり、雑なんですよ。
「なら丁寧に作ればいいのか」と言われればそうでもないような気もしてきます。丁寧に作られたのに、なんか違うなっていう二次創作もあるでしょうし……くさくなりますけど、やっぱ一番大切なのは作品に対しての愛なのかなぁと思いました。二次創作をする方はぜひ愛を持って(残虐行為なり過激描写なり)表現して欲しいです。

究極的な話
こんだけ書いておいて、僕が「悪趣味だな」と思った描写も、また別の性癖の方が見れば「なんだこれ、どストライクじゃないか!」ということもありえます。となれば僕が上で「作品愛がない」と批判した二次創作も立派な創作だといえ、究極的な話で言えば「なぜその作品が嫌なのか」と聞かれたら「僕が不快に思ったから」という答えになってしまいます。
よって二次創作が最終的に行きつくのは性癖なんですよね、だから好きなようにやればいいと思いますよ。
まぁ、一次創作の作家さんから「やめて」と言われたならやめるべきだと思いますが。

安斉実をみて思っていたこと
『雀蜂』の物語最後辺り、小説家志望だったころの安斉実が登場します。彼は最終予選であえなく落選したらしいですが、自分の作品(主に文章)に自信を持っていたらしく、「文章に安定感がある」という評価に

我が意を得たりという思いだった。小説で一番大切なのは、文章である。それも、ひとりよがりの比喩や、鬼面人を驚かす類の表現ではない。地に足をついた、安定感のある文章だ。

と喜び、持論を述べています。そして「若造にはない、長年生きて経験があってこその書ける、安定した文章だ(意訳)」など言ってました。
僕は安斉実の文章読んでないのでなんともいえませんけど、この安斉実が目指す「安定した文章」というの、というか引用した安斉の思っていること、小説家志望さんは注意した方がいいと思います。
ある程度の文章力は当然必要だと思います。しかし、文章力がいいからといって作品が評価されるとは限りません。素晴らしい確固たる普遍的な文体を目指すのもいいですけど、「この文章が書ければ、もっとかわいい女の子表現できるはずだ!」とか「最近の文体を自分なりに書いてみよう!」とか、そんなこと考えたほうが作家としてよっぽど健全だと思いますよ。

むしろ自分に
とはいうもの、この安斉実が勘違いしていた部分、僕としても耳が痛いシーンでした。僕も文章力あればいいとかなんとか書いていた頃があって、今もそれなりに心がけてるつもりですけど、それだけじゃダメなんですよね。
このシーン『雀蜂』読んだ人ならわかると思いますけど、展開も相まって考えてること痛々しんですよ。痛々しい人見て滑稽だと笑う一方で、架空の人物というのに自分を見てるみたいでとても胃が痛かったです。というか僕自身、「安定した文章」的なこと評価されて喜んでたことありますからね。
でもね、よくよく考えたら「安定した文章」ってそれ以外褒めるとこ無いってことですから。いわば「閑静な住宅街」みたいなものですよ。そんなの基本中の基本であって、ごくごく普通の話なんです。あぁ、耳が痛い。
まぁ、なにがいいたいのかというと、僕はあの辺のシーンで黒歴史を発掘したような感情になりました。という報告です。