読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

とある書物の備忘録

読書家ほどではない青年が本の感想を書くブログ

公園・神社の樹木 樹木の個性と日本の歴史

渡辺一夫 知識本

101冊目
樹木の歴史と東京の歴史

タイトル通り公園や神社の「樹木」に関して書かれてある本になります。
ただ注意すべきなのは話題の中心が「東京」であることです。東京であるがゆえ、地方民としては「ふーん」程度の話で(興味深い話でありますけど)終わってしまい、この本の楽しみを楽しみきれないもどかしさを覚えることになります。
逆に言えば東京都民はとても興味深い本になると思います。読んで公園や神社を歩きたくなる、そして痕跡を見つけたくなる、そんな本だと思いますよ。

僕は東京に行ったことがなくイメージもざっくりしたものだったのですが、こうして樹木の本を読むなり「(キレイに整備された公園があると知り)いいなー」と素直に思いました。羨ましいです。

近頃ポケモンGOも話題ですが、どうせ公園に行ったなら樹木を見ましょうよ! って話です。


※今回もネタバレありとありますが、個人的に気になったところを上げていこうと思います。

-----(ネタバレあり)-----


プラタナスは街路樹にふさわしくない
現在ある街路樹としてプラタナス*1があるのですが、そのプラタナスというのは「街路樹としては向いていないのではないか?」という(現在進行系の)エピソードがあります。

明治三九年に福羽*2は、当時農商務省山林局の技術官僚であった白沢保美とともに、東京市(現在の東京二三区)から街路樹に適した樹木の選定を委託されている。
福羽と白沢は、東京の街路樹にはどのような木が適しているかを検討した結果、イチョウ、スズカケノキプラタナス)、ユリノキアオギリ、トチノキ、トウカエデ、エンジュ、ミズキ、トネリコアカメガシワを選んだ。

その後、ミズキやアカメガシワが除かれて、ニセアカシア、シダレヤナギ、ソメイヨシノが追加したといいます。
かくして上の木々が今も街路樹として利用されています。当時、新宿御苑ユリノキプラタナスの種子と挿し木が大量に東京市に配布され、あの街の街路樹は新宿御苑プラタナスがルーツなんだぜ! なんてこと今もよくあるそうですよ(東京に行ったことないからわからない)。

さて、なぜプラタナスが街路樹として選ばれたのか。

プラタナスは、街路樹としてとてもよく使われる樹木である。プラタナスは、生長が非常に速い。その生命力はとても強く、生長が速いわけではなく、やせ地や乾燥、大気汚染に強く、移植や剪定に対する強さにおいても優れている。これが、プラタナスが都市の街路樹によく使われている最大の理由である。

これが理由でプラタナスは全国の街路樹十本指に入るほどよく見る樹木となります。しかしその生命力の強さゆえ、評判に陰りが見えてきたそうです。

(前略)というのも、生長が速すぎて剪定の費用がかさむからなのである。人間にとって街路樹というのは適当な大きさまでは速く育ってほしいのだが、剪定に手間や費用がかかるためそれ以上は大きくなってほしくない。(後略)

大きな街路樹は見栄えがいいですが、大きすぎたら邪魔になりますからね。今や交通量が多くなって、「この木邪魔だろ」なんて悲しいことを思うことしばしばです。
余談になるのですが、そういう「街並みの緑」を作る人がいる人達は「完成後」も考えるらしいです。緑を作るなら植えて終わりではなく、むしろその後の維持のほうが手間がかかるわけですし、木々が増えたら虫が来るわけですし、それでクレームをつけられたり……など「緑がほしいけど不便はしたくない」という声が大変ですね。という話題をたしかラジオで聞きました。
「作るまでか簡単、維持するのが大変」ってあれですね。傾向は全く違えどシステムエンジニアみたいですよね。

こうしてプラタナスは想定外の生長のために「街路樹に向いていない」ことが後々わかってきた。と、いいたいところですが、福羽さんや白沢さんは条件に挙げるときすでに「プラタナスはどうだろ?」と完全な納得はしていなかったそうです。

プラタナスは明治四〇年に東京市の街路樹に適した木として選ばれている。ところが、じつは、福羽逸人とともにそれを選んだ白沢保美は、プラタナスが街路樹にそれほど適しているとは思っていなかった。それでも推奨したのは、街路樹に適した樹木を選定を行なった五年後に東京で日本大博覧会が開催される予定だったためである。
とりあえず生長が速いプラタナスを植え、その後、他の樹種に変換していく考えだったらしい。ところが、全国の都市が東京の真似をして、プラタナスが流行ってしまったようだ。

東京の真似をするというのはわかりますが、急遽見栄えを良くするために行なった行動を地方は真似しちゃったらしいです。
今はそんなことなく、プラタナスではないケヤキハナミズキなど植えているそうです。

本多静六という男
頻繁に出てくる人物です。たくさんの業績を残しているのでどんな人かというのは難しいですが、主要な公園を設計した東京農科大学(後の東大農学部)の教授です。比企谷公園の設計者であり「首かけイチョウ」に首かけていた張本人がこの人だったりします。

彼の話をする前に余談です。実はこの人、別分野でも有名な人らしいですよ。

(前略)しかし、本多の名は、むしろ別の分野で有名である。それは、東大教授でありながら、独特の考え方で莫大な資産を築き、その蓄財法のノウハウや人生論などを本に著していることである。その成功の秘訣を説く本は、今でも売れているのだ。

自己啓発書みたいなものですかね? 気になる方は各自で見てください。
URL:Amazon.co.jp: 本多 静六:作品一覧、著者略歴

ちなみに彼は「人生に計画を立てて、努力を怠らず、倹約と利殖に励め(引用)」と言っているほど堅実な性格です。
なのにたかがイチョウ一つ(失礼)のために首(東大教授の職)をかけて物事にあたっているんですよ。その命懸けとも言える姿勢は彼らしからず、その想いの強さを伺わせます。

(前略)それは、並々ならぬ熱意をもって公園設計に取り組んでいたからである。本多はその著作で、比企谷公園を建設してほしいという依頼がきた時、「異常な希望と決心」を持ってその仕事を引き受けた、と述べている。

こんな思いがあって公園は出来上がったそうです。公園を散策しながら思いを馳せてみてもいいかもしれません。

ところで比企谷公園というのは「西洋」をモチーフにした日本初の西洋式公園であって、民衆が西洋に初めて触れた場所でもあるんです。
しかし初だからだれも西洋式公園の設計ができず、あるいは日本風にアレンジして設計してしまうため、公園の建設案はことごとく却下されていたそうです。あげく「いつまでも決まらないんなら公園用地を陸軍に返してくれ」など当時の市議会長である星亭が怒ったほど、なにも進まない不毛さがあったそうです。
そんな中、本多が選ばれました。理由の一つに「ドイツに留学したから」でしたが、そもそも本多の専門は林学であり造園の経験は皆無に等しかったそうです。それに当時設計責任者としては若すぎる34歳。無茶苦茶な人選でしたが、本多は並々ならぬ情熱を燃やし「比企谷公園を作る!」という思いをもって奔走したそうです。

(前略)本多にとって、最大の問題は、市参事会からの批判であった。これまで提出された数々の設計案は、市参事会の批判にあって否決されている。設計上の批判をかわし、市参事会を通過するために、本多は、各回の大家を味方につける。

日本式庭園については園芸家の小沢圭次郎、衛生面や公園全般は軍医総監の石黒忠悳、花壇については園芸学の福羽逸人……となんかもうすごい面々を束ねていったそうです。

(前略)これらの大家は、本多よりも年上の人物で、その渉外作業はたいへんだっただろうが、本多はさまざまな人の意見を聞き、その長所を汲み取り、賛同を得られるような案を作り上げる稀有の能力をもった人物であった。本多の人柄と能力について、当時の財界トップのひとりである渋沢栄一は、「学者にしておくには惜しい男だ」と評している。

大先輩達をまとめ上げて案を完成させてるのだからすごい。そしてその案が通っているのだかすごい。ちなみに公園北西部分の4分の1の小沢圭次郎監修日本庭園は否決されたそうです。
つまり市参事会は「すべて西洋の文化を取り入れた公園」を求めていたってことでしょう。本多側はそれを受け入れ、すべて西洋式公園にしました。
これを福羽逸人は「ドイツの小都市の公園の設計図に手を加えることなくそのまま使っただけ」と酷評したそうです。
まぁそんな事もあって、初めての西洋式公園、比企谷公園が作られることになります。

メタセコイアの森
水元公園にはメタセコイアの森があるらしいです。そのメタセコイアというもの実は「絶滅した」と思われていた木らしく、見つかったのはつい最近のことだとか。

一九四一年に三木*3は、日本で発表されたイチイに似た葉を持つ木の化石から、その化石の木をメタセコイアと命名し、その特徴を英語の論文で発表していた。(後略)

しかしである。一九四六年、絶滅していたと思われていたメタセコイアが、中国に生きているという報告が中国の学会誌に発表される。生きたメタセコイアの発見のニュースは世界中に大きな反響をもたらした。

中国で発見されたメタセコイアは、高さ30メートルほど直径は3メートルほどの木でした。四川省の農村の水田のほとりにあったらしく、地元住民は「水杉(スイサ)」と呼んで御神木のように大切に扱っていたそうです。
おもしろいことに中国ではすでにその木(メタセコイア)が見つかっていたものの、中国の植物学者はこの木が何なのかわかっておらず、いろいろ調べた結果として上の三木の論文を見つけ「あ、メタセコイアだったんだ」と気が付いたというところですよ。発表した連鎖がつながっているような縁を感じますよね。
その後、四川省の近くの湖北省メタセコイアの木々がたくさん見つかり、種子はアメリカに渡り、人の手で育てられ世界中に広がったのです。

注目してほしいのはメタセコイアがみつかったのが1946年だということです。
つい最近見つかって、つい最近日本にやってきたということで、つまり、あの水元公園にあるメタセコイアは「まだ発育中」ということです。まぁ植物は生きているのですべてが全て発育中であるんですが、あのメタセコイア達はまだなにもかも始まったばかりだということですよ。
日本にて出土したメタセコイアが「また」日本にやってきて50年。メタセコイアの森(太古の森)を作ってみよう、という試みがあの水元公園で行われているらしいです。太古の森を再現とか胸熱ですよ……。
作中、この水元公園メタセコイアの森)が1番興味をそそられた場所でした。行ってみたいですねぇ。

明治神宮プロジェクト
明治神宮の鎮守の森と言うのは想像してみて、とても神秘的で太古のイメージがありますが、実はあの森は大正時代に国によって「人工的に」作られた森になります。まぁ明治天皇を祀るために作られた新しい神社、と考えればごく自然のはなしなのですが。

さて、明治神宮の森と聞いてまず想像するのはクスノキだと思います。クスノキは寿命が長く、霊力を持つ木だと考えられていて、明治神宮にはクスノキ約9000本が植えられたそうです。
この9000本のクスノキは日本各地から集められた木なのですが、そのうち5000本は台湾から献納されたと書いてありました。なぜ台湾なのか? 僕は「善意なのかな」とか生易しいこと思ったりしたのですが、真実は「当時台湾は日本の領土だっから」だそうです。今もあるあのクスノキは台湾から送られてきたと考えると、なんだか感慨深い気持ちになります。
しかし本来亜熱帯に生息する木(クスノキ)が東京に来るのだから(本来東京に育つ木ではない)調子を悪くするようで、日本の寒さに台湾のクスノキは苦しんだそうです。

明治神宮の境内には、「タコ足」と呼ばれるクスノキがある。根元から幹が何本にも分かれているためこう呼ばれている。このような樹形になったのは、幼木の時に冬の寒さで一度枯れてしまったのだが、根元から再び芽が何本も出て育ち、再生したからである。

クスノキのたくましい生命力と、霜除けなど人間の工夫が合わさって生き残り今もなんとか育っているようです。
ただ「育つ」まではなんとかなっても「種子を残す」というところまではまだわかってないようで、仮に今あるクスノキがある光景が続くとはわからないそうです。大気汚染や異常気象もありますし、いろいろな要因がありますからね。

クスノキに話の中心を起きましたが、明治神宮では日本中の奉納があってこそ明治神宮の森が完成されたといえます。その奉納された献木はおよそ10万本近く、国家プロジェクトに参加している国民の熱心さが伺えますよ。

献木は、さまざまな人から届いた。埼玉県のある人は、個人でサカキ五〇〇〇本、ヒサカキ五〇〇〇本も献木した。東京市の小学生達は募金を集め、クロマツ、ヒノキ、シイ、ケヤキ、シカラシなど合計五〇〇〇本以上の木を用意し、献納している。九州からはクルメツツジが届いた。

運ぶための鉄道や船の料金は半額になったものの、堀取りから運搬までの全額費用は献木者の負担でした。なのに献木の応募は殺到したらしく、当時建設中の新宿駅から造営予定地まで鉄道の引き伸ばし線が設置され、貸し切り電車で神宮内まで送っていたそうです。いやーこういうの胸熱ですよね!
ちなみに送られてきた献木とはというと、

(前略)続々と到着してきた樹木は、すべて担当者が樹種や献木者の名前を確認し、台帳に記入し、受け入れない木(外国の木など)については、その理由の手紙をつけて送り返した。華美な花や実をつける観賞用の樹木も、神社の森にそぐわないという理由で、献木は許可されなかった。(中略)また、名前がわからない、初めて見るような木もあり、その確認は大変な作業であった。最終的に、受け入れた献木の樹種は三六五種に達した。

当時はパソコンなんてものはなかったのですから、それは想像を超えた大変な作業だっただろうと思います。踏まえてあの明治神宮ができていると考えると、神秘的な美しさのほかに、国家プロジェクト特有の泥臭い情熱というものを感じていっそう魅力的に見えますよね(行きたい)。

ただ送られてきた幼い木々だけでは神社とはいえない、いわば「幼い神社」と言えました。なので神社としての威厳をなんとか、森の体裁をどうにかしたてようと早急な対応が求められました。
ちなみに明治神宮の設計や建設を主に担当したのは比企谷公園の本多静六*4だそうです。明治神宮という巨大国家プロジェクトとだけあって当時の最高の学識経験者が集まって考えられたようで、そこでの中心になったのも本多静六だったそうです。つよい。

で、神社の体裁をなんとか整えようと奔走し、本多と大学を出たばかり若手技術者の上原敬ニたちによって白金火薬庫*5にちょうどいいクロマツがあると知ります。
かくしてクロマツなどを神宮に運ぶことが決まり、若手の上原が担当することに決まります。大正5年に調査が開始、大正6年に計画は実行されました。

しかし、白金から代々木までは直線距離でさえ約四キロメートルもある。当時はトラックやトレーラーなどなかった。このため、大型の荷台に木を乗せて、牛と馬に引かせることにした。といっても当時の東京に、大型の荷車や、牛馬がそれほどたくさんあったわけではない。苦労してなんとか荷車と牛馬を調達し、樹木の移動作戦は始まった。

大きな木を荷車で運搬するには警察の許可が必要だったらしく、警察の許可は電車(市電)が走らない時間帯しか下りなかったそうです。よって大木の運搬は深夜に行われ、徹夜になったとか。

荷馬車を引く牛が、動いてくれなくなることもあった。そうなると、嫌がる牛に声を枯らして勢いをつけ、なんとしても歩かせなければならなかった。交通が動き出す前に、どうしても代々木に辿り着けなければならなかったからである。人々が寝静まった深夜の街を、牛馬を引いて歩くのは、大変な仕事であったと、後に上原は回想している。

生き物が真っすぐ進んでくれるわけなく、店の看板を壊したり、おでんの屋台を引き倒したり、荷馬車の重さで敷石を割ったりなど事件を起こしていたそうです。なんかもうめちゃくちゃだなと思う一方、そんなのがかわいらしく思えるほど大事件があったようで、

(前略)最大のトラブルは、深夜、青山通りの手前で、荷車の車輪が壊れてしまった時である。修理に手間取り、夜が白み始めた頃に、警察が駆け付けてきて、ここは皇后陛下の本日の行幸の道筋に当たるので早く荷車を動かせ、という。急遽ジャッキを運び込んで、どうにか朝までに修理を終え、出発することはできたが、関係者は冷や汗をかいたに違いない。

こんな見るからに大変な作業を2ヶ月続けたらしく、結局500本すべて無事運び終えたそうです。担当者の上原は昼夜を問わず働き通しており、終わるなり過労で寝込んだそうです。おつかれさまです。
そして運ばれた木々、クロマツは残念ながら殆ど害虫などでやられてしまいましたが、スダジイやアカガシなどはかなり生き残っていて、大鳥居の周辺や枡形広場などで風格の姿を見せているそうです(見に行きたいです)。

【まとめ】
東京都中心の樹木には想像以上に人間ドラマが含まれていました。
問題は東京ってことですよね。東京行ったことないですし、これから足を運ぶのはいつのことやら……と、公園を想像するのみになりました。ぜひ行ってみたいです。とくにメタセコイアの森。
ところで、こんなに必死で作り上げた緑でも、火事や木材不足、環境汚染やニュータウン建設などであっけなく壊されている記述がけっこうあって悲しく思いました。頑張って作った公園なのに、ただ人間が生活するだけで滅びてしまうなんて。
まぁそれもまた時代なのでしょうか、など思ってみたりしました。

*1:スズカケノキスズカケノキ属のグループ総称、西アジアや北アメリカを原産地とする樹木。

*2:福羽逸人、内苑局長を務めた宮内省の宮廷園芸技術師。新宿御苑を生み育てた人であり、果実の品種改良、街路樹公園樹の研究を通し、遊園の分野において大きな功績を残している人。彼が明治三四年に日本もヨーロッパに肩を並べる宮廷庭園を作ろう計画を提出した。

*3:三木茂、日本の植物学者

*4:彼は「森の外見が簡単に変化しない森こそ神宮に相応しい」と考え理想とした。それは「永遠の森」と呼ばれた。

*5:今の自然教育園

広告を非表示にする