とある書物の備忘録

読書家ほどではない青年が本の感想を書くブログ

終末の名画 大洪水、黙示録、最後の審判…巨匠たちが幻視した終末のビジョン

142冊目
終末をテーマにした絵の紹介

世界の終わりをモチーフにした絵の紹介などがされている本になります。

終末としてイメージできる「最後の審判」「ヨハネの黙示録」などが話題の中心であり、例にわかるようにキリスト教の話が多いです。そしてキリスト教多いというと西洋美術の話が多いということになります。

印刷がよく、挿絵もカラーで載っていたりします。絵画と説明文による初心者向けガイドみたいな美術本でした。


※ネタバレありとありますが個人的に気になったところをあげていこうと思います。



ーーー(ネタバレあり)---




ノアの箱船の形の話
第一章にノアの箱舟の話が出てきました。
この章で気になった話題といえば「ノアの箱舟の形」についてになります。
ノアの箱舟といえば、僕らが想像するのは木の船といったところなのですが、どうやら本当は(神様がノアに箱舟の作り方を詳細に指示したようで)その形が思っていたのとは違ったようです。

そもそも聖書には箱舟に関して詳細な記述が載っていたのだ。神は、ノアに、次のような仕様で箱船を作るように命じている。糸杉の木で、長さ約135メートル(300キュピト)、幅約23メートル(50キュピト)、高さ約14メートル(30キュピト)の箱船を作り、上には屋根を、横には戸口を設け、内部は3階建ての構造に、中と外からアスファルト(タール)で両面を塗るというものである。

見てわかるようにかなり詳細に神は指示をしているようで、イメージすればわかるように箱船はあくまで「箱」でしかなく、もっと言えばかなり長細い箱だそうでした。

さて、作中に紹介されているミケランジェロの『大洪水』という有名な作品があるのですが、その絵は「ノアの箱舟と大洪水」を表しているらしく……とはいっても、絵を見たらわかるように船っぽいものが見当たりません。
実のところ、この作品においてノアの箱舟にあたるのは「奥にある家みたいなもの」のようで、あれが「ノアの箱舟」を表しているようです。
なぜ神様から教えられたとおりの見た目じゃなく家みたいな形にしたのかというと、理由は単に「わかりやすいように」といったところで、「箱舟に入るものすべてみな家族だから(家族としての家)」みたいな発想だからだそうです。

ちなみにですが、このような家の形の箱船はほかにもあるようで、中には長方形の箱船の上に家が乗っかっているようなノアの箱舟もあるそうです(フランスのサン・サヴァン修道院天井画)。
それらの違いに気を付けながら、ノアの箱舟をテーマにした絵を見たらおもしろいかもしれません。

URL:ミケランジェロ 大洪水 - Google 検索

URL:フランスのサン・サヴァン修道院天井画 - Google 検索

ふたつの滅亡の話と近親相姦
ノアの箱舟の話は「水による滅亡」を表しているなら、もう一つの滅亡の話である「火による滅亡」、「ソドムとゴモラの話*1」があります。
こちらはノアの話と比べたらバッドエンド(妻が塩の柱になってしまったから)といえるのですが、この話で驚いたのは「うっかり振り返り妻は塩の柱になってしまった」展開よりも「逃げたロトのその後」の話ですよね。

街に逃げたロトは妻を失ったことに対してショックを受けて人気のない森の洞穴に娘と住むことになります。そしてここで子供ができないことに気がついた娘たちは、ロトをワインで泥酔させてそのまま性行為に至る、という展開があるんですよね。
それだけでもまぁまぁ驚きなんですけど、注意すべきは「(水と火の)二つの滅亡の話は対比になっている」という部分で、同じような展開がノアの箱舟の話にもあるんですよね。
こちらも似たような展開で、ロトのようにノアもお酒を伸ばされて泥酔したころに性行為に至ってる……って話なんですけど、こちらは娘がおらず息子だけなんですよ。つまり息子と父親が性行為に至ったということもあり……という、「性癖こじらせてんな!」と思ったって話です。

ところで、ノアの話の絵画は「洪水のシーン単体」が多い一方で、ソドムとゴモラの話では「大火に焼かれてる街」+「近親相姦しつつあるシーン」がセットで書かれてることが多く、ソドムとゴモラの絵では一見破廉恥な絵画の奥にめっちゃ燃えてる街の様子が描かれてあったり、街の燃えてる様子の端っこに近親相姦しそうな父娘の様子が書かれてあったりして背景を知ってみると意味が分かって興味深かったです。
もしソドムとゴモラの絵を見るときは、燃えてる街並みを見ながら、あれから逃れてきてこうなったみたいなことを思ったりしながら見るとおもしろいかもしれませんね。

ミケランジェロの美学
ちょくちょく出てくるミケランジェロという人物ですが、気難しい職人のような(とはいってもユーモアがありそうな)人物のように感じました。
個人的に興味深かったのは、ミケランジェロ作『最後の審判』制作秘話ですかね。

最後の審判のシーンというものは聖書についても重要なシーン(天国にいくか地獄にいくのか判断するシーン)です。ここで気にしてほしいのは神が人を選別しているということで、登場するのは少なくとも「神」と「人間」というものに分かれます。
さてここでミケランジェロの『最後の審判』を見てほしいのですが、こちらを見ると「神」も「人間」も「天使」もみんな裸体なんですよね。よくよく見ると「これが神で、こっちは人……」とわかるんですけど、一見だれがだれなのかわからないという、ある種の冒涜のような(そもそも神が人間と同じ裸体という)ことになっています。

本に書いてた余談ですが「(画面一体裸とは)破廉恥だ」と批判したチェゼーナという儀典長がいるんですが、これにミケランジェロは反発して『最後の審判』の右下にチェゼーナを(地獄の王ミノスとして)描き加えるんですよね*2
これにはチェゼーナも弱り、即刻パウルス三世に「どうにかして消させてください(泣)」と頼むのですが、王様は「余は神から地上の権限を与えられているが、地獄まではおよばない」と突っぱねているんですよね。
悲しきチェゼーナ、(絵の中では)地獄に落ちたそうです。
*3

さて、そんな裸体たちをなぜミケランジェロは描いていったかというと、ミケランジェロにとって「肉体美こそが最大の美」と思っていたらしく、神様は自分に似せて人間を作ったということから「やはり肉体美が最高の美しい形」ということで裸体なんだそうです。それを踏まえて最後の『最後の審判』を見ると、「肉体美」がこれでもかというほどある様子から『最後の審判』こそミケランジェロ渾身の作品だとうかがえますよね。実際『最後の審判』を観察したらわかるのですが、とても美しい肉体美がそこにあります。

URL:最後の審判 (ミケランジェロ) - Wikipedia


【まとめ】
聖書と聞くと、神聖な(それはもう神聖なものなのですが)ものかと思ったんですが、ひも解いてみれば人間深いシーンがあったりとかして、さらにそれを絵にして再現してきた画家たちだって眺めてみれば人間味の溢れる人ばかりだそうです。それらを踏まえて絵画を見ると、より一層西洋美術が面白く見えてきそうです。
思えば、西洋美術の本だというのに聖書の話題が多くなってしまいました。まぁでも聖書の終末についてよく書かれてた本でしたしセーフです。

*1:大まかなあらすじ:ノアから数えて10代目のアブラハムという男のもとに天使が現れて「主が罪深きソドムとゴモラという街を滅ぼします」と伝えにくるので、アブラハムはどうにかして滅亡させるのを阻止しようと頼む。すると甲斐あってか「10人、正しい人がいたら許しましょう」ということになる。そんな天使はソドムに到着すると、アブラハムの甥であるロトが天使に気がついて家に招いてもてなす。ここで天使を招いたことに気がついた周辺の住民がわらわらとやってきて「おい、女が入ってきただろ抱かせろよ(意訳)」と詰め寄ってくる。ロトは困りながら「代わりに男を知らない女を二人用意するから許してくれないか」と言うが、集まった人たちは離れようとはしない。見かねた天使は集まった人を打って混乱させている間にロトを家に引っ張り込み「この街を滅ぼす」と宣告し、だから家族と共に逃げるよう言う。ロトは妻と娘二人を連れて街から離れるも、その際に「立ち止まっても振り返ってはならない」と天使に言われていた。やがて天使たちはソドムとゴモラに硫黄と火を落とし、街を大火にするのだが、ここでうっかり振り返ってしまった妻は塩の柱になる。ロトはそれにショックを受けながら、娘と逃げるのだった

*2:補足:最後の審判においては「神から見て右が救われる人(画面から見て左)」と「画面上にいるのが救われる人」という暗黙の了解があるので、画面から見て右下というのはつまり地獄に落ちたという意味になります

*3:さらに補足:その後「やはり破廉恥なのでは?」という声が大きくなり、ミケランジェロの死後に、ミケランジェロの弟子たちが布を描き加えたのだそうです。